2008/11/19

”ユダヤ教の教義は善悪二元論であって、それにともなう精神構造も、自分は正、相手は邪、と
きめつけてしまう傾向があるわけですが、
 門徒宗の宗旨は、みずからが、阿彌陀仏(あみだぶつ)にすがる以外、もはや救われるすべのない、
罪業深重(ざいごうじんじゅう)の凡夫(ぼんぷ)であるのだと、わきまえる所にあります。
 そして、お互いそういう凡夫同士なのだから、むりな注文はよしにして、
お互いに許しあい譲りあい、仲よく折りあっていきましょうや、……という姿勢をとるのです。
そういう姿勢を、社会生活の「しのぎ」に用いています。
 多重構造の日本には、そういう宗教社会としての一側面が、色濃くあるわけです。
これは、日本的な「甘えあい」や「なれあい」の構図が成立する土壌でもあるわけですが、
ともかく、お互いに、「私が悪うございました、いや私のほうこそ悪うございました」と、
頭を下げあって、調和をとってゆく。
 みずからの罪業深重ぶりを、より深く、より強く、覚り知る者が、
ここでは、人格者、悟達者、ひいては長老という形のリーダーとして、
人々から尊敬され、中心に立てられるのです。
 それで、日本人の社会には、この価値観に沿った自己顕示のパターンが、一つ出来上がっています。
たとえば、外国の敵性世論による日本の歴史教科書への検閲行為などには、まっさきにとびついて、
一緒になって自虐的な批判をくりひろげ
 自前の軍備も、日米安保も、すべて廃して丸はだかになれ、などと本気で主張し、
 口を開けば戦時の自国の罪状を、有ること無いこと、必要以上に増幅しながら言いたててきた、
日本の言論・政治勢力。
このふしぎな反日日本人達の無意識は、そのような熱心な自国断罪の姿勢の表明をとおして、
「自分だけは、懺悔(ざんげ)し廻心(えしん)することを知る人間である。と表明していたのです。
 他の野蛮な連中とは違って、我等が罪を認めることのできる、一等オトナの、知者・人格者である、
だから、自分だけは、別格の待遇をせよ。長老格の話し相手、相談相手として、認知し、尊敬せよ、」
……と、そう、白い目をむく外来者に向かって、自己アピールをし続けていたわけです。
 自己処罰的・自己虐待的な自己認識を持つと、ほめてもらえる。尊敬してもらえる。
長者の立場でそれをすれば、うまくすると、たてまつられて長老扱いまでされる。
日本には、そういう精神風土が昔からあったのです。
 あれは、インテリを自任する彼等の、外来の敵性感情に対する自己顕示欲です。
いち早く「懺悔」し、温厚な人格者と認めさせ、そこに形成される人間関係の中で長老格に収まる。
彼等の意識構造には、そういうぬけがけの「出世」ないし自己顕示への野心が、隠れているわけです。”
http://home.catv.ne.jp/dd/sanmon/2-3.htm

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