”松本零士氏がセリフの「盗用」をめぐる裁判で敗訴した。彼がpro-copyright派の愚劣さを世の中に示した功績は大きいが、この事件もいろいろなことを考えさせる。
松本氏の脳内では、すべての情報は作者が所有しているのだろうが、これは著作権という誤った制度が生み出した幻想だ。情報の複製が「盗用」なら、彼の「銀河鉄道999」は宮沢賢治の盗用だ。そもそもヴィトゲンシュタインが指摘したように、自然言語の文法も語彙も社会的に共有されているのだから、私的言語はありえない。複製や共有を盗用というなら、すべての表現は盗用なのだ。
トヨタの没落も単なる販売戦略の誤りではなく、「自家用車」という幻想の終わりの始まりではないか。私は免許をもっていないが、今まで不自由したことはほとんどない(例外はシリコンバレーでタクシーがなかったとき)。少なくとも日本の都市では、タクシーですべて用は足りる。わざわざ自家用車を所有して、週末にドライブするぐらいしか使わないのは社会的な浪費だ。
同じように浪費されているのはコンピュータだ。PCは1日のうち平均1時間も稼動していないだろう。これをつないで使う「クラウド」は、従来のハードウェアを所有するという考え方を変えて、必要なときだけ借りて使うものだ。これは実は、新古典派経済学の企業理論と同じである。資本財に完備市場があれば、設備を企業が所有する意味はなく、必要なときだけ借りて使えばよい。そんなことは普通の資本財では不可能だが、インターネットはそういう世界を実現しつつある。
契約理論が教えるように、所有権は将来どのように資源を使うか予想できないとき、その残余コントロール権を特定の人が独占することによって権利の配分を効率化する次善のしくみだ。しかし情報のように共有可能な公共財では、このような所有権は意味がない。物的な資源も、クラウドのように事前に予約せずに自由に使うことができれば所有権で囲い込む必要はない。
半導体が絶対的に供給過剰になれば、価格メカニズムで計算資源を節約する意味はなく、むしろそこにアクセスする人の関心が稀少になるので、その個人情報を売買するビジネスのほうが有望だ。グーグルのAdSenseは、間接的に個人情報をmonetizeするしくみだが、プライバシーについての無意味な規制が撤廃されれば、もっと直接に個人情報を売ることもできよう。
今後100年を考えると、おそらく近代社会の基本的な枠組である所有権の意味が薄れ、情報資源は必要なときだけレンタルするしくみに変わっていくのではないか。このとき問題なのは、物と所有者が1対1に対応しなくなり、価格形成がむずかしくなることだが、それは資源や情報を共有する最善のシステムを実現することに比べれば大した問題ではない。価格メカニズムは、所有権という非効率な権利を効率的に配分するしくみにすぎないからだ。
だから今は、所有権=価格メカニズムという300年ぐらい続いたシステムから、次のシステムへの過渡期だろう。次にくるのがどんなシステムなのかまだよくわからないが、その移行を実験しているのが(彼らが自覚しているかどうかは別として)グーグルだと思う。彼らが電波の「コモンズ」に強い関心を示しているのは、たぶん偶然ではない。”
http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/b0fc34293a9512894c013e2c76a20358
2008/12/28
2008/12/10
”ローマ大帝国も、ナポレオンの国でさえも、一度戦いに負ければ亡びている。私の国のカイゼル陛下にしても、また生前中は神の如く慕われていたヒットラーも、イタリアのムッソリーニも、戦いに負けたらすべてそのまま残ることはできない。殺されるか、外国に逃げて淋しく死んでいる。だから日本の天皇も外国に亡命すると思っていた。しかし、そんなことは聞かない。だからすでにこの世におられないと思っていた。
ところが最近、日本から来た記録映画を見て驚いた。天皇が敗戦で大混乱の焼け跡を巡っておいでになる姿である。しかも、二年もの長い間、北の端から、南の端まで、焼き払われた廃墟を巡って、国民を慰めておられる。陸軍も海軍もすでに解体されているのに、一兵の守りもないのに、無防備のままで巡っておられる。
平穏無事なときでも、一国の主権者が、自分の国を廻られるその時には、厳重な守りがなされている。それでも暗殺される王様や大統領がある。それなのに一切の守りもなく、権力、兵力の守りもない天皇が日本の北から南まで、焼き払われた廃墟を巡る。国民を慰める。何という命知らずの大胆なやり方であろうか。いつどこで殺されるか。こう思って映画を見ていた。 しかし驚いたことに、国民は日の丸の小旗を打ち振って天皇を慰めている。こんなに美しい国の元首と国民の心からの親しみ、心と心の結び、これはどこにも見られないことである。われわれは改めて、日本を見直し、日本人を尊敬しなければならないと思っている。
オットー・カロン博士”
ところが最近、日本から来た記録映画を見て驚いた。天皇が敗戦で大混乱の焼け跡を巡っておいでになる姿である。しかも、二年もの長い間、北の端から、南の端まで、焼き払われた廃墟を巡って、国民を慰めておられる。陸軍も海軍もすでに解体されているのに、一兵の守りもないのに、無防備のままで巡っておられる。
平穏無事なときでも、一国の主権者が、自分の国を廻られるその時には、厳重な守りがなされている。それでも暗殺される王様や大統領がある。それなのに一切の守りもなく、権力、兵力の守りもない天皇が日本の北から南まで、焼き払われた廃墟を巡る。国民を慰める。何という命知らずの大胆なやり方であろうか。いつどこで殺されるか。こう思って映画を見ていた。 しかし驚いたことに、国民は日の丸の小旗を打ち振って天皇を慰めている。こんなに美しい国の元首と国民の心からの親しみ、心と心の結び、これはどこにも見られないことである。われわれは改めて、日本を見直し、日本人を尊敬しなければならないと思っている。
オットー・カロン博士”
2008/12/09
”【日銀砲】
日銀上司「いいか、これから1分ごとに10億円づつ円売りドル買い介入を行う」
日銀部下「1分ごとに10億円も?」
日銀上司「そうだ1分ごとに淡々と売り続けるんだ。これから24時間売り続けるんだ。」
日銀部下「24時間ですか?」
日銀上司「そうだ。為替相場に終わりは無いんだ。もちろん交代要員も用意してあるが出来るだけ頑張ってくれ。」
日銀部下「はー、、。でも1分間に10億円だと1日に1兆円以上の資金が必要ですが?」
日銀上司「今、30兆円用意してある。当面はこれを使う」
日銀部下「それを使い切ったらどうするんですか?」
日銀上司「財務省が保有している200兆円もの米国債のうち、比較的短期のものを最大100兆円売って新たな介入資金を作る」
日銀部下「米国債なんか売っちゃっていいんですか?」
日銀上司「円売りで買ったドルで新たに米国債を買い、国庫に返還するので問題は無い。
とにかく相手が折れるまで淡々と売り続けるんだ。休んだらヘッジの思う壺だ」
これを35日間続けました。
この結果アメリカのヘッジが2000社倒産しました。
また、行方不明になったり自殺した人も大量にいました。”
http://vipvipblogblog.blog119.fc2.com/blog-entry-248.html
”日本の市場介入
日本の場合、外国為替平衡操作と呼ばれ円を引き下げる場合は円売り介入、引き上げる場合は円買い介入と呼ぶ。基本的にドルに対する取引で行われるが、ユーロに対して行われる場合もある。貿易が経済において重要なウェイトを占める日本は、通貨高を阻止するための円売り介入を比較的頻繁に行っていた。現時点では投資ファンドによる投機的な動きを阻止するための介入のみ行われファンダメンタルの趨勢による為替変動には介入は行っていない。
例としては、2004年はじめ行われた大規模な市場介入がある。前年の8月頃から、イラク情勢などの影響により投機筋は大幅な円高になると見込んでいた。このため投資ファンドは世界中から巨額の資金を集めて円買いを進め、1ドル117円前後で安定していた円相場は105円台に迫るまで跳ね上がっており、すぐに100円を切るとの観測もされていた。これに対抗するため、日銀は1日1兆円規模の円売り介入を継続的に実施し、結果投資ファンドは利益を上げることができず、目的を果たさないまま手仕舞いされ事態は収束した。
この点で日本の市場介入の特異さがある。まず、日本の市場介入の場合、為替の基礎的な価値の調整、つまり自国の都合で為替操作を行うといった不合理な措置は行われない。
自国通貨安を追及する場合究極的には、通貨である円を刷れば国内物価のインフレを覚悟すればいくらでも可能である(そして当時も日本はデフレ状況であった)。
実際は為替平衡債を発行して得た円をドルに交換する訳だが、それで得たドルを現状ドル債権を購入した場合低金利の円と金利の高いドルとで利鞘が発生し続ける。
投資マネーにより人為的に安価になったレート(円高)でドルを手に入れるので、元に戻れば為替差益が発生する。
このため資金の融通に不足しない日本政府による介入は恣意的すぎ、基軸通貨国への挑戦になってしまうためルール的には望ましくなく許容できないが、当時ITバブルの崩壊で住宅投資誘導を図っており流動性の不足が内在化していたアメリカの暗黙の了解の下に行われたいわゆる禁じ手と理解されている。
以上の件はソースの付くような性質ではないが、上記介入の折否定的なコメントがアメリカから出されたのは目的が果たされた後であったこと、以後日本による介入は絶えていることなどから状況は否定出来ない。
この巨額な(当時のドル債権保有高は100兆円、介入は30兆円以上)介入は世上で「日銀砲」と俗称され日銀の為替介入だと一部誤解を招いているが、実際には日本政府、つまり財務省管轄下の外国為替資金特別会計がその介入主体である。日本政府は国債の一種である政府短期証券(FB)を債券市場にて発行する事により民間や日銀(政府短期証券は国債ではあるが法的に日銀による直接引き受けが許されている。)などから介入資金を借り入れて介入資金を調達している。そのため日本国民の持つ莫大な金融資産を背景に資金を調達する日本政府の足元を見た為替介入はいかな数千兆円といわれる投機資金をも寄せ付けない前例となってしまっている傾向が顕著である(圧倒的に投機側が不利)。
これはインフレ率を見た場合、バブル時の過大評価から現在の過小評価されているといわれる円経済を萎縮させ、かつて言われた内外価格差を消し去り、低金利とあいまって内需を強く押し下げる要因としての副作用を日本に残している。
なお、この時の介入においては、通常行なわれる不胎化政策が行なわれず円貨が市中に放置され、デフレ対策としての量的緩和も目的としていたといわれている。”
http://ja.wikipedia.org/wiki/日銀砲
日銀上司「いいか、これから1分ごとに10億円づつ円売りドル買い介入を行う」
日銀部下「1分ごとに10億円も?」
日銀上司「そうだ1分ごとに淡々と売り続けるんだ。これから24時間売り続けるんだ。」
日銀部下「24時間ですか?」
日銀上司「そうだ。為替相場に終わりは無いんだ。もちろん交代要員も用意してあるが出来るだけ頑張ってくれ。」
日銀部下「はー、、。でも1分間に10億円だと1日に1兆円以上の資金が必要ですが?」
日銀上司「今、30兆円用意してある。当面はこれを使う」
日銀部下「それを使い切ったらどうするんですか?」
日銀上司「財務省が保有している200兆円もの米国債のうち、比較的短期のものを最大100兆円売って新たな介入資金を作る」
日銀部下「米国債なんか売っちゃっていいんですか?」
日銀上司「円売りで買ったドルで新たに米国債を買い、国庫に返還するので問題は無い。
とにかく相手が折れるまで淡々と売り続けるんだ。休んだらヘッジの思う壺だ」
これを35日間続けました。
この結果アメリカのヘッジが2000社倒産しました。
また、行方不明になったり自殺した人も大量にいました。”
http://vipvipblogblog.blog119.fc2.com/blog-entry-248.html
”日本の市場介入
日本の場合、外国為替平衡操作と呼ばれ円を引き下げる場合は円売り介入、引き上げる場合は円買い介入と呼ぶ。基本的にドルに対する取引で行われるが、ユーロに対して行われる場合もある。貿易が経済において重要なウェイトを占める日本は、通貨高を阻止するための円売り介入を比較的頻繁に行っていた。現時点では投資ファンドによる投機的な動きを阻止するための介入のみ行われファンダメンタルの趨勢による為替変動には介入は行っていない。
例としては、2004年はじめ行われた大規模な市場介入がある。前年の8月頃から、イラク情勢などの影響により投機筋は大幅な円高になると見込んでいた。このため投資ファンドは世界中から巨額の資金を集めて円買いを進め、1ドル117円前後で安定していた円相場は105円台に迫るまで跳ね上がっており、すぐに100円を切るとの観測もされていた。これに対抗するため、日銀は1日1兆円規模の円売り介入を継続的に実施し、結果投資ファンドは利益を上げることができず、目的を果たさないまま手仕舞いされ事態は収束した。
この点で日本の市場介入の特異さがある。まず、日本の市場介入の場合、為替の基礎的な価値の調整、つまり自国の都合で為替操作を行うといった不合理な措置は行われない。
自国通貨安を追及する場合究極的には、通貨である円を刷れば国内物価のインフレを覚悟すればいくらでも可能である(そして当時も日本はデフレ状況であった)。
実際は為替平衡債を発行して得た円をドルに交換する訳だが、それで得たドルを現状ドル債権を購入した場合低金利の円と金利の高いドルとで利鞘が発生し続ける。
投資マネーにより人為的に安価になったレート(円高)でドルを手に入れるので、元に戻れば為替差益が発生する。
このため資金の融通に不足しない日本政府による介入は恣意的すぎ、基軸通貨国への挑戦になってしまうためルール的には望ましくなく許容できないが、当時ITバブルの崩壊で住宅投資誘導を図っており流動性の不足が内在化していたアメリカの暗黙の了解の下に行われたいわゆる禁じ手と理解されている。
以上の件はソースの付くような性質ではないが、上記介入の折否定的なコメントがアメリカから出されたのは目的が果たされた後であったこと、以後日本による介入は絶えていることなどから状況は否定出来ない。
この巨額な(当時のドル債権保有高は100兆円、介入は30兆円以上)介入は世上で「日銀砲」と俗称され日銀の為替介入だと一部誤解を招いているが、実際には日本政府、つまり財務省管轄下の外国為替資金特別会計がその介入主体である。日本政府は国債の一種である政府短期証券(FB)を債券市場にて発行する事により民間や日銀(政府短期証券は国債ではあるが法的に日銀による直接引き受けが許されている。)などから介入資金を借り入れて介入資金を調達している。そのため日本国民の持つ莫大な金融資産を背景に資金を調達する日本政府の足元を見た為替介入はいかな数千兆円といわれる投機資金をも寄せ付けない前例となってしまっている傾向が顕著である(圧倒的に投機側が不利)。
これはインフレ率を見た場合、バブル時の過大評価から現在の過小評価されているといわれる円経済を萎縮させ、かつて言われた内外価格差を消し去り、低金利とあいまって内需を強く押し下げる要因としての副作用を日本に残している。
なお、この時の介入においては、通常行なわれる不胎化政策が行なわれず円貨が市中に放置され、デフレ対策としての量的緩和も目的としていたといわれている。”
http://ja.wikipedia.org/wiki/日銀砲
”しゅうえきモデル”の おはなし
"発売以来安定して売れ続けており、今年も据え置き型ゲーム機として販売台数1位に輝いた任天堂の「Wii」ですが、1台売るごとに任天堂が得られるおおよその利益が算出されました。
また、任天堂が高収益になるカラクリのほか、ソニーのPS3やマイクロソフトのXbox360についても言及されています。
詳細は以下の通り。
MyWii News - Nintendo Making $6 dollars on Every Wii Sold
この記事によると、任天堂は現在までに世界中で3500万台のWiiを販売したそうです。これはほぼ同時期に発売されたPS3の1300万台と、1年半ほど先行して発売されたXbox360の2300万台と比較してもかなり高い数字となっています。
また、この高い販売台数の背景には任天堂が販売戦略として、中年世代に運動の場を与える「WiiFit」のようなソフトを提供していることや、誰でも手に入れられる価格帯でゲーム機を提供することを優先していることが、ライトユーザーを取り込むことにつながったとしており、そして現在Wiiを1台販売することで得られる利益はおよそ6ドル(約556円)となると推定されています。
なお、発売当初1台を製造するのに535ドル(約5万円)かかっていたXbox360や、840ドル(約7万8500円)かかっていたPS3についてですが、Xbox360は発売3年を経た現在、ようやく製造コストと販売したことで得られる利益が損得差し引きゼロの状態になったとしており、発売2年となるPS3はまだ販売することで損失が出る状態だとしています。
つまり初期モデルからPS2との互換性を維持するためのチップセットを排除してコストダウンを図った現行モデルのPS3は、来年以降に損得差し引きゼロの状態に近づいていくということでしょうか。
ちなみにゲーム機本体を販売だけでも利益が出るようになっているWiiですが、「グランド・セフト・オート」や「コール・オブ・デューティ」「アサシン クリード」といったサードパーティー製のソフトが売り上げ上位を占めるPS3とは異なり、Wiiは「大乱闘スマッシュブラザーズX」や「スーパーマリオギャラクシー」といった任天堂製のソフトが売り上げ上位を占めていますが、自社のゲーム機向けに自社でソフトを開発した場合、通常ソフトメーカーがゲーム会社に支払うロイヤリティを抑えられるため、ソフトの価格を下げて競争力を高めることができることも強みとなっているそうです。"
http://gigazine.net/index.php?/news/comments/20081209_wii/
また、任天堂が高収益になるカラクリのほか、ソニーのPS3やマイクロソフトのXbox360についても言及されています。
詳細は以下の通り。
MyWii News - Nintendo Making $6 dollars on Every Wii Sold
この記事によると、任天堂は現在までに世界中で3500万台のWiiを販売したそうです。これはほぼ同時期に発売されたPS3の1300万台と、1年半ほど先行して発売されたXbox360の2300万台と比較してもかなり高い数字となっています。
また、この高い販売台数の背景には任天堂が販売戦略として、中年世代に運動の場を与える「WiiFit」のようなソフトを提供していることや、誰でも手に入れられる価格帯でゲーム機を提供することを優先していることが、ライトユーザーを取り込むことにつながったとしており、そして現在Wiiを1台販売することで得られる利益はおよそ6ドル(約556円)となると推定されています。
なお、発売当初1台を製造するのに535ドル(約5万円)かかっていたXbox360や、840ドル(約7万8500円)かかっていたPS3についてですが、Xbox360は発売3年を経た現在、ようやく製造コストと販売したことで得られる利益が損得差し引きゼロの状態になったとしており、発売2年となるPS3はまだ販売することで損失が出る状態だとしています。
つまり初期モデルからPS2との互換性を維持するためのチップセットを排除してコストダウンを図った現行モデルのPS3は、来年以降に損得差し引きゼロの状態に近づいていくということでしょうか。
ちなみにゲーム機本体を販売だけでも利益が出るようになっているWiiですが、「グランド・セフト・オート」や「コール・オブ・デューティ」「アサシン クリード」といったサードパーティー製のソフトが売り上げ上位を占めるPS3とは異なり、Wiiは「大乱闘スマッシュブラザーズX」や「スーパーマリオギャラクシー」といった任天堂製のソフトが売り上げ上位を占めていますが、自社のゲーム機向けに自社でソフトを開発した場合、通常ソフトメーカーがゲーム会社に支払うロイヤリティを抑えられるため、ソフトの価格を下げて競争力を高めることができることも強みとなっているそうです。"
http://gigazine.net/index.php?/news/comments/20081209_wii/
2008/11/26
ジェッ トストリィー ンム
遠い地平線が消えて、ふかぶかとした夜の闇に心を休める時、
はるか雲海の上を音もなく流れ去る気流は、
たゆみない宇宙の営みを告げています。
満点の星をいただくはてしない光の海を
ゆたかに流れゆく風に心を開けば、
きらめく星座の物語も聞こえてくる、
夜の静寂(しじま)の、何と饒舌なことでしょうか。
光と影の境に消えていったはるかなる地平線も
瞼に浮かんでまいります。
皆様の夜間飛行のお供を致しますパイロットは城達也。
夜間飛行のジェット機の翼に点滅するランプは、
遠ざかるにつれ次第に星のまたたきと区別がつかなくなります。
お送りしております、この音楽が
美しく、あなたの夢に、溶け込んでいきますように。
はるか雲海の上を音もなく流れ去る気流は、
たゆみない宇宙の営みを告げています。
満点の星をいただくはてしない光の海を
ゆたかに流れゆく風に心を開けば、
きらめく星座の物語も聞こえてくる、
夜の静寂(しじま)の、何と饒舌なことでしょうか。
光と影の境に消えていったはるかなる地平線も
瞼に浮かんでまいります。
皆様の夜間飛行のお供を致しますパイロットは城達也。
夜間飛行のジェット機の翼に点滅するランプは、
遠ざかるにつれ次第に星のまたたきと区別がつかなくなります。
お送りしております、この音楽が
美しく、あなたの夢に、溶け込んでいきますように。
"「こうしたプロセスを使って(ロボットたちは)分析を行ない、インプロバイズ(即興演奏)することができる」と、電話取材に対しWeinberg助教授は説明した。「応用の仕方の1つは、遺伝的アルゴリズムを使うものだ。あるものの個体群を作っておいて、その小さな個体すべてに突然変異を起こさせる。今回のケースでは、音楽のモチーフが1つ1つの個体にあたる。突然変異および音楽の遺伝子間の交配によって、環境により適した新しい個体群ができる」
Weinberg助教授はさらに次のように述べた。「遺伝子間の交配が起こる(およそ)50世代の変異を高速に実行して生じた結果が、たとえばサックス奏者が演奏したモチーフに似ているかどうかを検証する。そして、サックス奏者が演奏したものと、ピアノ奏者が演奏したものの音楽の遺伝子を組み合わせて演奏する。それは、遺伝的アルゴリズムだけが生み出せる独自のものだ」
その結果は驚くほどの出来映えだ。ドラムを演奏するロボット『Haile』には数年の演奏経験があるが、マリンバを演奏する『Shimon』は11月上旬に公開されたばかりだ。それなのにShimonは、リズムだけでなくメロディーもこなしている。
Weinberg助教授によると次の段階の1つは、ロボットたちに、最も面白いパートを演奏している人間の演奏者の方を観察させるということだ。
まだ納得できない? ではもう1本、動画を見てほしい。"
2008/11/20
2008/11/19
”ユダヤ教の教義は善悪二元論であって、それにともなう精神構造も、自分は正、相手は邪、と
きめつけてしまう傾向があるわけですが、
門徒宗の宗旨は、みずからが、阿彌陀仏(あみだぶつ)にすがる以外、もはや救われるすべのない、
罪業深重(ざいごうじんじゅう)の凡夫(ぼんぷ)であるのだと、わきまえる所にあります。
そして、お互いそういう凡夫同士なのだから、むりな注文はよしにして、
お互いに許しあい譲りあい、仲よく折りあっていきましょうや、……という姿勢をとるのです。
そういう姿勢を、社会生活の「しのぎ」に用いています。
多重構造の日本には、そういう宗教社会としての一側面が、色濃くあるわけです。
これは、日本的な「甘えあい」や「なれあい」の構図が成立する土壌でもあるわけですが、
ともかく、お互いに、「私が悪うございました、いや私のほうこそ悪うございました」と、
頭を下げあって、調和をとってゆく。
みずからの罪業深重ぶりを、より深く、より強く、覚り知る者が、
ここでは、人格者、悟達者、ひいては長老という形のリーダーとして、
人々から尊敬され、中心に立てられるのです。
それで、日本人の社会には、この価値観に沿った自己顕示のパターンが、一つ出来上がっています。
たとえば、外国の敵性世論による日本の歴史教科書への検閲行為などには、まっさきにとびついて、
一緒になって自虐的な批判をくりひろげ
自前の軍備も、日米安保も、すべて廃して丸はだかになれ、などと本気で主張し、
口を開けば戦時の自国の罪状を、有ること無いこと、必要以上に増幅しながら言いたててきた、
日本の言論・政治勢力。
このふしぎな反日日本人達の無意識は、そのような熱心な自国断罪の姿勢の表明をとおして、
「自分だけは、懺悔(ざんげ)し廻心(えしん)することを知る人間である。と表明していたのです。
他の野蛮な連中とは違って、我等が罪を認めることのできる、一等オトナの、知者・人格者である、
だから、自分だけは、別格の待遇をせよ。長老格の話し相手、相談相手として、認知し、尊敬せよ、」
……と、そう、白い目をむく外来者に向かって、自己アピールをし続けていたわけです。
自己処罰的・自己虐待的な自己認識を持つと、ほめてもらえる。尊敬してもらえる。
長者の立場でそれをすれば、うまくすると、たてまつられて長老扱いまでされる。
日本には、そういう精神風土が昔からあったのです。
あれは、インテリを自任する彼等の、外来の敵性感情に対する自己顕示欲です。
いち早く「懺悔」し、温厚な人格者と認めさせ、そこに形成される人間関係の中で長老格に収まる。
彼等の意識構造には、そういうぬけがけの「出世」ないし自己顕示への野心が、隠れているわけです。”
http://home.catv.ne.jp/dd/sanmon/2-3.htm
きめつけてしまう傾向があるわけですが、
門徒宗の宗旨は、みずからが、阿彌陀仏(あみだぶつ)にすがる以外、もはや救われるすべのない、
罪業深重(ざいごうじんじゅう)の凡夫(ぼんぷ)であるのだと、わきまえる所にあります。
そして、お互いそういう凡夫同士なのだから、むりな注文はよしにして、
お互いに許しあい譲りあい、仲よく折りあっていきましょうや、……という姿勢をとるのです。
そういう姿勢を、社会生活の「しのぎ」に用いています。
多重構造の日本には、そういう宗教社会としての一側面が、色濃くあるわけです。
これは、日本的な「甘えあい」や「なれあい」の構図が成立する土壌でもあるわけですが、
ともかく、お互いに、「私が悪うございました、いや私のほうこそ悪うございました」と、
頭を下げあって、調和をとってゆく。
みずからの罪業深重ぶりを、より深く、より強く、覚り知る者が、
ここでは、人格者、悟達者、ひいては長老という形のリーダーとして、
人々から尊敬され、中心に立てられるのです。
それで、日本人の社会には、この価値観に沿った自己顕示のパターンが、一つ出来上がっています。
たとえば、外国の敵性世論による日本の歴史教科書への検閲行為などには、まっさきにとびついて、
一緒になって自虐的な批判をくりひろげ
自前の軍備も、日米安保も、すべて廃して丸はだかになれ、などと本気で主張し、
口を開けば戦時の自国の罪状を、有ること無いこと、必要以上に増幅しながら言いたててきた、
日本の言論・政治勢力。
このふしぎな反日日本人達の無意識は、そのような熱心な自国断罪の姿勢の表明をとおして、
「自分だけは、懺悔(ざんげ)し廻心(えしん)することを知る人間である。と表明していたのです。
他の野蛮な連中とは違って、我等が罪を認めることのできる、一等オトナの、知者・人格者である、
だから、自分だけは、別格の待遇をせよ。長老格の話し相手、相談相手として、認知し、尊敬せよ、」
……と、そう、白い目をむく外来者に向かって、自己アピールをし続けていたわけです。
自己処罰的・自己虐待的な自己認識を持つと、ほめてもらえる。尊敬してもらえる。
長者の立場でそれをすれば、うまくすると、たてまつられて長老扱いまでされる。
日本には、そういう精神風土が昔からあったのです。
あれは、インテリを自任する彼等の、外来の敵性感情に対する自己顕示欲です。
いち早く「懺悔」し、温厚な人格者と認めさせ、そこに形成される人間関係の中で長老格に収まる。
彼等の意識構造には、そういうぬけがけの「出世」ないし自己顕示への野心が、隠れているわけです。”
http://home.catv.ne.jp/dd/sanmon/2-3.htm
2008/11/18
2008/11/17
"iPhone はとんでもないものを盗んでいきました。いいえ、それは私の「心」ではありません。
もちろん、最初の二、三日くらいは心を奪われていたかもしれません。しかし、ちょっと落ち着いて考えてみれば(24時間連続で iPhone の発売の様子をネットライブし続けた)Leo Laporte の言葉を借りるなら、”It’s a fricken phone!” 「たかが携帯じゃないか! おちつけ!」というわけです。
この新しい端末を手にして1週間が経ち、ひとしきり新機能を使い倒したあとで感じたのは iPhone を通して感じたネットと自分との新しい距離感と、そしてオフライン時間の喪失の二つでした。
iPhone に限った話ではありませんが、高機能化するモバイルデバイスを手に入れることで私たちが得るもの・なくすものについてまとめてみました。
手に入れたもの・なくしたもの
便利には間違いありません。
iPhone を手にして電波の届く場所にいる限りは、いつでもブログのコメントをモニターし、Twitter のタイムラインをチェックし、気になる人々の FriendFeed を追いかけて、場合によっては Mobile Me 経由で情報の方からかってにこちらにやってきます。
週末に山へと向かっている途上でも、現地の歴史や特産品についてちょっとした調べものを思いついた瞬間に、躊躇無く iPhone で Wikipedia を開くことがクセになりました。ノートパソコンを持ち歩いていたとき以上に、ポケットの中に Mac の Safari と同等の力をもっているブラウザがいつでもあるという信頼が生まれ始めているわけです。
しかしその反面、iPhone があるせいで「完全にオフライン」な状態がほとんどなくなったとも言えます。
毎年恒例の山旅へは金曜日に休暇をとって行ったのですが、その途上でも次から次へとメールは iPhone に向けてプッシュされ続けていました。そしてなまじ機能が高いために、Word であれ、Excel であれ、仕事に関係する添付ファイルはすべて完璧に読めてしまい、判断を迫られることになります。
便利である一方で、送信されてくるメールに対して責任を感じる度合いに応じ、私が iPhone の提供する情報に対して「No」とは言いづらい状況が自然とできあがります。先日の David Allen さんとのインタビューで私が恐れていた「仕事とオフとのコンテキストの喪失」がさっそく始まった感があります。
いうなれば、iPhone は私の「何にもつながっていない自分一人の時間」を盗んでいったのです。
オフライン時間の贅沢さ
この週末、私はネットはおろか、電話さえもままならない山の中にいました。
雲の中へと吸い込まれるロープウェーに乗っている間も、電波が切れる最後の瞬間まで Mobile Me のサービスは律儀にメールをプッシュしていましたが、その最後の通信が途絶えて圏外になったときに、どこか大きな安心感を感じました。
雲海の上を二日にわたって歩き回り、九時には自家発電が止まって消灯されるロッジの裏山で闇夜の温泉としゃれ込んでいる間、私は最新のニュースがどうなっているのか、自分の受信箱にどんなメールが入っているのか、あるいはオートパイロットにしたままの自分のブログがどうなっているかも、ほとんど考えませんでした。
かつては(あるいは今でも場所次第では)ユビキタスにネットにつながれることは贅沢でした。しかしネットが世界を覆うにつれて、こんどはオフラインでいることが希少化し、贅沢とさえいえる状態になってしまったのです。
一度だけ、闇夜の中で湯につかりながら「いま、この瞬間も世界中には限りないメールが行き交い、高速光ファイバーネットワークは有用・無用の膨大な情報を流し続けているんだろうな」という想像をしました。でもすぐに、「そんなことはどうだっていいことだ」と、森の梢が立てる不思議な音に心を奪われたのでした。
ネットがある世界では、どうしてもペースは自分と他人との間のシンコペーションになりがちですが、この山の中ではそれを刻んでいるのは自分の鼓動だけです。この贅沢は何にも代え難いものがあります。
終わりなき「情報ダイエット」
しかし実際には、いつまでも山にいるわけにもいきません。
いつかは山を下りて、自分に向けて飛んでくる情報の洪水と向きあう時がやってきます。むしろそちらの方が普段の自分で、山にいる自分は例外的な休暇に過ぎないのです。
でもこの「完全オフライン」の休暇が、いつも大事なことをもう一度思い出させてくれました。それは iPhone に限らず、どんな情報端末にしても、自分が許す限りにおいて使うべきであるという単純な、でも忘れやすいルールです。
自分が情報に蹂躙されることを許しているなら、それは際限なく家庭の中や、一人の時間にまで浸食してきます。しかしそれでは、iPhone は自分で自分を翻弄するための新しい(しかも高価な)雑音生成装置と化してしまいます。
「情報をいつでも入手できる力を持ちながら、あえてそれを自分の意志で制御できてこそ初めて最も大きな効果が生まれる」という逆説的な真理を、iPhone や、今後も次々と生まれてくる情報端末は明らかにしてくれているのです。
David Allen さんとの対談で「iPhone や携帯が悪いのではない。それは底流に流れている問題を明らかにしたに過ぎない」「君は携帯に使われるのをよしとするのか? それとも自分で行動を選びとるのか?」という話題が出てきたこととも関連します。
iPhone は確かに便利なガジェットです。でもその力を自分のために最も効果的に制御できるか? 機能を使いこなすよりも、そちらの方が大きな挑戦ではないかと思うのです。
p.s.
ところで、いまのところ Mobile Me メールでは自分にとって重要なメールだけをプッシュする設定はできません。アカウントを複数用意して、GMail などを前段階のフィルターに使えば可能ですが、あまりに煩雑です。
プッシュサービスを本格化するなら、ぜひ Apple にはこの機能を速やかに実装してもらいものですね…。"
http://lifehacking.jp/2008/07/iphone-and-information-overload/
もちろん、最初の二、三日くらいは心を奪われていたかもしれません。しかし、ちょっと落ち着いて考えてみれば(24時間連続で iPhone の発売の様子をネットライブし続けた)Leo Laporte の言葉を借りるなら、”It’s a fricken phone!” 「たかが携帯じゃないか! おちつけ!」というわけです。
この新しい端末を手にして1週間が経ち、ひとしきり新機能を使い倒したあとで感じたのは iPhone を通して感じたネットと自分との新しい距離感と、そしてオフライン時間の喪失の二つでした。
iPhone に限った話ではありませんが、高機能化するモバイルデバイスを手に入れることで私たちが得るもの・なくすものについてまとめてみました。
手に入れたもの・なくしたもの
便利には間違いありません。
iPhone を手にして電波の届く場所にいる限りは、いつでもブログのコメントをモニターし、Twitter のタイムラインをチェックし、気になる人々の FriendFeed を追いかけて、場合によっては Mobile Me 経由で情報の方からかってにこちらにやってきます。
週末に山へと向かっている途上でも、現地の歴史や特産品についてちょっとした調べものを思いついた瞬間に、躊躇無く iPhone で Wikipedia を開くことがクセになりました。ノートパソコンを持ち歩いていたとき以上に、ポケットの中に Mac の Safari と同等の力をもっているブラウザがいつでもあるという信頼が生まれ始めているわけです。
しかしその反面、iPhone があるせいで「完全にオフライン」な状態がほとんどなくなったとも言えます。
毎年恒例の山旅へは金曜日に休暇をとって行ったのですが、その途上でも次から次へとメールは iPhone に向けてプッシュされ続けていました。そしてなまじ機能が高いために、Word であれ、Excel であれ、仕事に関係する添付ファイルはすべて完璧に読めてしまい、判断を迫られることになります。
便利である一方で、送信されてくるメールに対して責任を感じる度合いに応じ、私が iPhone の提供する情報に対して「No」とは言いづらい状況が自然とできあがります。先日の David Allen さんとのインタビューで私が恐れていた「仕事とオフとのコンテキストの喪失」がさっそく始まった感があります。
いうなれば、iPhone は私の「何にもつながっていない自分一人の時間」を盗んでいったのです。
オフライン時間の贅沢さ
この週末、私はネットはおろか、電話さえもままならない山の中にいました。
雲の中へと吸い込まれるロープウェーに乗っている間も、電波が切れる最後の瞬間まで Mobile Me のサービスは律儀にメールをプッシュしていましたが、その最後の通信が途絶えて圏外になったときに、どこか大きな安心感を感じました。
雲海の上を二日にわたって歩き回り、九時には自家発電が止まって消灯されるロッジの裏山で闇夜の温泉としゃれ込んでいる間、私は最新のニュースがどうなっているのか、自分の受信箱にどんなメールが入っているのか、あるいはオートパイロットにしたままの自分のブログがどうなっているかも、ほとんど考えませんでした。
かつては(あるいは今でも場所次第では)ユビキタスにネットにつながれることは贅沢でした。しかしネットが世界を覆うにつれて、こんどはオフラインでいることが希少化し、贅沢とさえいえる状態になってしまったのです。
一度だけ、闇夜の中で湯につかりながら「いま、この瞬間も世界中には限りないメールが行き交い、高速光ファイバーネットワークは有用・無用の膨大な情報を流し続けているんだろうな」という想像をしました。でもすぐに、「そんなことはどうだっていいことだ」と、森の梢が立てる不思議な音に心を奪われたのでした。
ネットがある世界では、どうしてもペースは自分と他人との間のシンコペーションになりがちですが、この山の中ではそれを刻んでいるのは自分の鼓動だけです。この贅沢は何にも代え難いものがあります。
終わりなき「情報ダイエット」
しかし実際には、いつまでも山にいるわけにもいきません。
いつかは山を下りて、自分に向けて飛んでくる情報の洪水と向きあう時がやってきます。むしろそちらの方が普段の自分で、山にいる自分は例外的な休暇に過ぎないのです。
でもこの「完全オフライン」の休暇が、いつも大事なことをもう一度思い出させてくれました。それは iPhone に限らず、どんな情報端末にしても、自分が許す限りにおいて使うべきであるという単純な、でも忘れやすいルールです。
自分が情報に蹂躙されることを許しているなら、それは際限なく家庭の中や、一人の時間にまで浸食してきます。しかしそれでは、iPhone は自分で自分を翻弄するための新しい(しかも高価な)雑音生成装置と化してしまいます。
「情報をいつでも入手できる力を持ちながら、あえてそれを自分の意志で制御できてこそ初めて最も大きな効果が生まれる」という逆説的な真理を、iPhone や、今後も次々と生まれてくる情報端末は明らかにしてくれているのです。
David Allen さんとの対談で「iPhone や携帯が悪いのではない。それは底流に流れている問題を明らかにしたに過ぎない」「君は携帯に使われるのをよしとするのか? それとも自分で行動を選びとるのか?」という話題が出てきたこととも関連します。
iPhone は確かに便利なガジェットです。でもその力を自分のために最も効果的に制御できるか? 機能を使いこなすよりも、そちらの方が大きな挑戦ではないかと思うのです。
p.s.
ところで、いまのところ Mobile Me メールでは自分にとって重要なメールだけをプッシュする設定はできません。アカウントを複数用意して、GMail などを前段階のフィルターに使えば可能ですが、あまりに煩雑です。
プッシュサービスを本格化するなら、ぜひ Apple にはこの機能を速やかに実装してもらいものですね…。"
http://lifehacking.jp/2008/07/iphone-and-information-overload/
2008/11/14
"あらゆる情報は、「しょせん済んでしまったこと」
なぜか。それは現代人が、未来を見ているつもりで、過去しか見ていないからです。
インターネットの発達で、現代人は飛躍的にたくさんの「情報」を手に入れることができるようになりました。こうした「情報」をたくさん集めて何に使うのかというと、「新しいこと」を生むためです。あるいは「未来」を予測して、失敗しないようにするためです。
けれども考えてみてください。
いくらたくさん「情報」を集めようと、それはすべて「過去の積み重ね」「済んでしまったこと」にすぎません。それだけを眺めていても、未来に起きることを見越したり、新しいことを発見したりすることはできないのです。
いま、流行の言葉に「危機管理」、英語でいうと「リスクマネジメント」というのがありますね。よく考えてみると変ではないですか? そもそも「管理」できるのであれば、それは本質的な「危機」ではありません。いまの段階で「管理」できないからこそ、「危機」のはずなのです。"
http://business.nikkeibp.co.jp/article/person/20081112/177038/
なぜか。それは現代人が、未来を見ているつもりで、過去しか見ていないからです。
インターネットの発達で、現代人は飛躍的にたくさんの「情報」を手に入れることができるようになりました。こうした「情報」をたくさん集めて何に使うのかというと、「新しいこと」を生むためです。あるいは「未来」を予測して、失敗しないようにするためです。
けれども考えてみてください。
いくらたくさん「情報」を集めようと、それはすべて「過去の積み重ね」「済んでしまったこと」にすぎません。それだけを眺めていても、未来に起きることを見越したり、新しいことを発見したりすることはできないのです。
いま、流行の言葉に「危機管理」、英語でいうと「リスクマネジメント」というのがありますね。よく考えてみると変ではないですか? そもそも「管理」できるのであれば、それは本質的な「危機」ではありません。いまの段階で「管理」できないからこそ、「危機」のはずなのです。"
http://business.nikkeibp.co.jp/article/person/20081112/177038/
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